『脳資本』はなぜ国別ランキングにしないのか — Brain Capital Dashboardの設計思想

脳資本を測る3つの柱(記事内容を表したイメージ図) トピック解説
図:脳資本を測る3つの柱

前回の記事「AIの時代に価値が上がるのは「脳」そのもの」で紹介したMcKinsey×WEFのレポートは、ブレインキャピタル(脳資本)を高めるための5つのレバーの1つに「研究と計測の強化」を挙げ、その具体例として「Global Brain Capital Dashboard(GBCD)」という国際的な指標ツールを紹介していました。今回は、開発チームが公開している30ページのワーキングペーパー原論文にあたり、このダッシュボードの中身を掘り下げます。

開発の経緯と、指標づくりの背景にある危機感

GBCDは、Euro-Mediterranean Economists Association(EMEA)、OECDの神経科学政策イニシアティブ(NIPI)、Brain Capital Allianceが2021年半ばから共同で開発し、2023年9月19日、国連総会に付随する「Science Summit」で公開されました。論文の筆頭著者はEMEA創設者のRym Ayadi氏、共著者にはライス大学ベーカー公共政策研究所のHarris Eyre氏、Brookings InstitutionのCarol Graham上級フェローらが名を連ねています。

開発の背景には、具体的な経済損失の規模があります。論文が引用する数字を並べると、規模の大きさが分かります。

課題 現在の経済損失 2030年の予測
精神疾患(世界全体) 年5兆ドル 年16兆ドル
認知症(世界全体) 年1.3兆ドル 年2.8兆ドル
脳卒中の直接医療費(米国、2015〜2035年) 367億ドル 943億ドル
米国のオピオイド危機(2020年) 1.5兆ドル(2017年比+37%)

さらに論文は、2020年時点で世界各国政府の医療予算のうちメンタルヘルスに充てられているのは平均2%強に留まる(WHO Mental Health Atlas)という投資不足の実態や、コロナ禍でうつ病の有病率が27.6%、不安障害が25.6%それぞれ増加したというデータも示しています。

3つの柱・12の測定領域

ダッシュボードは3つの柱で構成され、それぞれがさらに具体的な測定領域(ディメンション)に分かれています。

Brain Capital Dashboardの3つの柱

柱1: Brain Capital Drivers(脳資本の推進要因) — 生涯を通じて脳資本の蓄積を後押しする、あるいは阻害する構造的要因。8つの領域で構成:

  1. 出生前後の健康課題(周産期の母体栄養・ストレス・産後うつなど)
  2. 食料・栄養の安全保障
  3. 医療サービスへのアクセスと公共政策
  4. 自然環境・気候(緑地・大気汚染への曝露)
  5. 文化的環境(芸術・文化へのアクセス)
  6. 社会的条件(格差、社会的つながり、信頼)
  7. 教育
  8. デジタル化

柱2: Brain Health(脳の健康) — 2つの領域:

  • 脳疾患: うつ病、アルツハイマー病、パーキンソン病、多発性硬化症、統合失調症、脳卒中、自閉症など。データは主にIHMEの「Global Burden of Disease」から取得
  • 健全な脳機能: 「疾患がないこと」の逆側、つまりポジティブな脳の健全性を測る領域。ただし論文自身が「まだ発展途上」と認めており、自己統制感(locus of control)、睡眠パターン、神経化学的バランスなどが将来の候補指標として検討されている段階

柱3: Brain Skills(脳のスキル) — 2つの領域:

  • 認知スキル: 学習・記憶・推論・問題解決・判断力
  • 非認知スキル: 忍耐力(グリット)、誠実性、自己効力感、共感力などの「ソフトスキル」。Big Five(OCEAN)性格特性のような既存の枠組みも参照されていますが、論文は既存の性格診断プロジェクトのデータについて「サンプルが代表性を欠く(サンプル数が少ない、または自己選択バイアスがある)」という理由で、ダッシュボードへの採用を見送ったと明記しています

なぜ「国別スコア」を作らなかったのか

このダッシュボードについて調べていて、最も興味深かったのがこの点です。論文には「The Challenge of a Brain Capital Index(ブレインキャピタル指数化の難しさ)」という独立した章があり、開発チームはあえて単一の総合スコアや国別ランキングを作らなかったことを明言しています。

理由として挙げられているのは、各指標が独立して重要な意味を持ち、国によって望ましいアウトカムへの寄与度(重み)が異なるという点です。論文は具体例として、「脳資本の推進要因スコアが同じ2つの国」があったとしても、片方は人種差別・移民問題・貧困のスコアが悪く、もう片方は社会的孤立・幼少期のトラウマ・大麻使用のスコアが悪いというように、中身がまったく異なる可能性を挙げています。この場合、必要な政策介入も両国でまったく異なるため、単一の数値に集約してしまうと、政策的に意味のある情報がかえって失われてしまう、というのが開発チームの立場です。

これは、世界銀行の「人的資本指数」のような単一スコア型の指標とは異なる設計思想です。GBCDは「国同士を順位づけて競わせるツール」としてではなく、「各国が自国の状況を多面的に把握し、政策立案の材料にするための診断ツール」として設計されています。分かりやすいランキング表がない代わりに、政策的な誤読のリスクを避ける設計になっている、と言えるでしょう。

まとめ

  • Global Brain Capital Dashboardは、EMEA・OECD NIPI・Brain Capital Allianceが2021年から開発し、2023年9月に国連総会の場で公開した、脳資本を可視化する国際指標ツール
  • 開発の背景には、精神疾患だけで年5兆ドル(2030年に16兆ドル予測)、認知症で年1.3兆ドル(2030年に2.8兆ドル予測)という、既存のGDP統計に十分反映されない経済損失がある
  • 「Brain Capital Drivers(8領域)」「Brain Health(2領域)」「Brain Skills(2領域)」の3本柱・計12の測定領域で構成される
  • 開発チームは意図的に単一の総合スコアや国別ランキングを作らなかった。理由は、同じスコアでも国によって背景にある課題がまったく異なり、単一数値化すると政策的に意味のある情報が失われるため
  • これは世界銀行の人的資本指数のような「順位づけ型」ではなく、「多面的な自己診断型」の指標設計であり、ブレインキャピタルという概念の複雑さを反映した、意図的な設計判断と言える

参考・出典

  • Ayadi, R., Eyre, H. A., Graham, C., Ronco, S., Stotts-Lee, E.「The Global Brain Capital Dashboard」Rice University’s Baker Institute for Public Policy, Working Paper(2023年9月26日): https://www.bakerinstitute.org/research/global-brain-capital-dashboard
  • 前回記事: 「AIの時代に価値が上がるのは「脳」そのもの — McKinseyが提唱する「ブレインキャピタル」とは」: https://xs232654.xsrv.jp/mckinsey-brain-capital-ai/

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